
たくさんのエピソードをお寄せいただきましてありがとうございました。
あなたには、親からもらった大切なものはありますか?
むろん、モノもたくさんあるでしょう。
ずっとほしかった魔法のコンパクト。当時はまだ高かったステレオ。成人式にあつらえてくれた振袖……。
どれも親との想い出がいっぱいで、懐かしく、そして切ないモノばかりです。
でも親と自分をつないでいるのはモノだけではないはずです。
……あのとき、親が自分にしてくれたあんなこと、こんなこと。
そのときの親の気持ちが、歳を重ねた今ならわかる。
改めて「あのときはありがとう」と伝えたい。
今回の「親がわたしにくれたもの」は、そんな親との想い出を通して、親とその子世代(「オトナ親子®」)のコミュニケーションのきっかけ創りにと思い、企画しました。
おかげさまで、全国の10~70代までの方々から多数ご応募いただきました。
なかには、ご家族にありがとうの気持ちを伝えたくてと、今回ご応募してくださった方もいらっしゃいました。
印象的だったのは、それぞれの方々のそのときの出来事が「今の自分」、そして「将来の自分や家族」につながっているということ。
今回お寄せいただいたステキなお話のいくつかをご紹介させていただきます。
お寄せくださったみなさま、ありがとうございました。
この連休、ご家族で集まる方々は、ぜひ今回のお話をみなさんのおしゃべりの話題にしていただけると嬉しいです。
(ご報告の時期がお約束より遅れてしまい申し訳ありませんでした)

生まれて今までの記憶が頭の中をまるで走馬灯のように走り巡る中、もらった事によって笑顔や涙、時には激怒したりすることもありました。
そんなこれまで生きてきた中で、どれを取っても素敵なことなんだなって思える今があるということ全てに感謝なのだと思うので、物や出来事ではないですが私の今ある“命”そのものなのではないかと思いました。
気がつくと目線を落として母と会話しなければならなくなっていたり、言われてばかりだった私が敢えて母へと言わなければならなくなっていたり。
そんな誰もが通る当たり前で、普通な出来事を今歩ませてくれている両親に、感謝の気持ちでいっぱいなんです。
これからも元気で長生きして、笑顔溢れる家族の形であり続けて欲しいと心から願っています。🧡最上級の感謝を込めて…ありがとうございます。
(みきさん、30代、岐阜県)

親からもらったものと聞かれて、まず、美味しい食事を思い出しました。
海辺の農村に実家はありました。そこで、父親は兼業で米を作っていました。手塩にかけて育てた新米の味・香り、当時は、当たり前だと思って食べていたのですが、今、それが食べられなくなって、初めて、父の凄さ、有り難さを噛み締めています。父は、地元の郵便局員だったのですが、空いた時間を見つけては、裏の海に潮干狩りに行くのが趣味でした。父が採ってくる蛤はぷくぷくに太っていました。季節になると、蟹もたくさん採れました。私は、その蟹が大好きで、だから父は、私が実家を離れても、採れた蟹を送ってくれました。
父は時々市場に出かけて、生きた魚を買ってきて刺身や煮魚にしてくれました。あの新鮮な刺身の歯応えも忘れられません。煮魚の鮮魚ならではの風味も、なぜか脳に記憶できてる気がします。
現在、私は、交通の便もよく、そこそこ街と言われる場所に住んでいます。実家を出てから私は何も親孝行できなくて、父が亡くなった時、申し訳なくて何日間も泣いていました。そんなある日、我が家の近くで、通るはずもないような釣竿を持ったおじさんが、自転車の前籠に蟹を入れて通りかかり、うちの息子に見せてくれました。さらに、「これ、やるから、持って帰れ」と言って持たせてくれました。私は、茹でて、我が家に設置したばかりの父の仏壇に供えて、そのあと食べました。私は、親不孝な娘なのに、父は、亡くなってからも私に蟹を食べさせてくれようとしたのかなあって、不思議な気持ちです。🧡おおらかに愛してくれてありがとうございます。
(C.さん、60代、福岡県)

父にもらったものは数知れない。そんななか鮮明に覚えているのは小学生の頃に二人きりで行った後楽園遊園地だ。北関東の田舎に住んでいるためすぐに行ける距離ではない。それなのに、2週に渡って後楽園遊園地まで行ったのだ。それも二人きりで。あの頃の父は会社を経営していた。そんな忙しい父が何故、立て続けに遊園地に連れていったのか今なら分かる。だいぶ後に母に聞いた話だが会社が一時期、相当危うい時期にあったのだという。ちょうど遊園地に行ったその頃だったはずだ。きっと父もジェットスターに乗って何もかも忘れて叫びたかったのかもしれない。それぞれ違う思いを抱えながら味わったジェットスターは父からの大切な贈り物だ。🧡まともに会話をしなくなって何年経ったでしょうか。普段、決して言えないけれど、おっとう、ありがとう。
(石川みや子さん、40代、栃木県)

父からもらった大切なものは、一つの腕時計。高校に入学した時、「これから時間を大切にしろよ」と父がくれた。シンプルなデザインだけど、長年使われた傷が刻まれていて、父の歴史を感じる。忙しく働く父の姿を見て育った僕にとって、その時計は努力と責任の象徴でもある。試験や大事なイベントの前には必ずつけるようにしている。父がこの時計と共に歩んできたように、僕も自分の道をしっかりと刻んでいきたい。
(末吉さん、10代、広島県)

私は発達障害と精神障害を持っています。その症状として希死念慮という、いなくなりたい気持ちがあります。ある日、将来について悩んでないていたら母に「明日は明日の風が吹く」「あなたなら大丈夫」と声をかけてもらいました。毎日悩んで苦しかった気持ちがふと一瞬軽くなったように感じました。生きてればなんとかなる。なんとかできる。母は口癖のようにそう言います。私は母のその言葉に救われました。それから数ヶ月、私は以前よりも少し明るく自信を持って生きれています。🧡小さい頃のようにずっと笑顔ではないけれど、お母さんのおかげで今も生きていられます。これからもずっと大好きです。
(匿名希望さん、10代、神奈川県)

夫が亡くなった。突然の事だった。子どもはまだ6歳。悲しむ暇もなく通夜葬儀、様々な事務処理に追われる私の元へ、母は来てくれた。「食べることは力だから」と山ほどの食べ物を持って。そしてそのまま百貨店へ連れていかれた。「良いソファを買ってあげる。これからあなたと子ども、二人で生きる家を心地よいものにしなさい」
そう言って、自分ではとても買えない値段の、素敵なソファを注文してくれた。私と子ども、二人で生きていかなければならない。それが現実で、そしてそれが現実であるなら、しっかりと生きていきなさい。と全力で背中を押された気がして身が引き締まる思いだった。🧡しっかり前向いて、子どもと手を繋いで生きるからね!
(かやぼんさん、40代、福岡県)

昭和52年のこと。中学に進学した記念に、親が腕時計を買ってくれた。父と二人で商店街の時計屋に行ったのを覚えている。値段は一万五千円。安くはなかった。父はついでに自分の時計も買おうと思っていたのだが、私の時計を買ったらお金が足りなくなってしまった。それでも父は、快く買ってくれた。その後も私は、自分で腕時計を買ったことがない。その時計は、私が三十代の時に動かなくなった。時計屋に持って行ったら、かなり古いものだから修理するより新しい物を買った方が安いと言われた。それきり、私は腕時計をしていない。私の腕時計は、生涯それだけ。動くか動かないかは問題ではない。今も、いつも見えるところに置いてある。
(松本俊彦さん、60代、京都府)

読書が大好きだった父は、休みの日に車で山を下りて街の書店に出かけ、目的の本がある棚だけではなく、のんびり本を吟味しながらフロアを回り、毎回数冊買っていた。私も店内を見て回るのが好きだった。本との出会いは魅力にあふれていた。帰宅後に何度かサプライズで贈られた図鑑は、今でも全部大事に実家の本棚に仕舞ってある。図鑑の中には、様々な世界が広がって見えた。でも幼少期しか一緒に過ごせなかった父からの一番の贈り物は、図鑑よりも、書店に出かけるという習慣だったと、大人になった今、しみじみ感じている。健やかなる時はもちろん、病める時も書店に出かける元気だけは残っているのは、父がそうだったからだと思っている。🧡お父さん、一生の素敵な習慣をありがとう。
(vuvuさん、40代、東京都)

幼い頃、私が「お話して」とせがむと、母は「しゃあないなあ」と言って兄と私の布団の真ん中に潜り込み、即興でつくった物語を聞かせてくれた。毎回「ぶーちゃんとべーちゃん」という二人が主人公の冒険譚で、おそらく兄と私をモデルにしていたのだと思う。いつもその場で思いついたことを口にしているだけなので、話の筋などあったものではない。めちゃくちゃな物語だったけれど、私たち兄妹はケラケラと声をあげて笑った。今でもずっと胸の奥にある、あたたかくて幸せな記憶だ。大学生になって初めて書いた童話が新聞に掲載されたとき、誰より喜んだのは母だった。物語をつくる楽しさを教えてくれた母に、少しは恩返しできていたらうれしい。🧡あんなにもお母さんが大好きだったのに、ちゃんと「大好き」って言葉で伝えたことがあったかな。細くなったお母さんの手をにぎってさすりながら、後悔と、ありがとうと、いろんな思いが溢れました。どうか今は穏やかに、いつまでも私たちを見守っていてね。
(ハルカさん、40代、東京都)

昨年の3月に母が亡くなりましたが、その数カ月前のことです。私は急に腰が痛くなり、動けない状態になりました。脊柱管狭窄症というもので、大変な激痛を伴うものでした。
そのため、寝たきりになってしまい、会社も休まざるをえなくなりました。その間、母が、私の看病をしてくれました。肩を貸してくれたり、服を着ることも手伝ってくれました。まるで赤ん坊に戻ったような感じでした。
母のお陰もあって、去年の4月から会社に復帰することになりましたが、そんな矢先、母が突然倒れて帰らぬ人となりました。あの時間は、神様が母と一緒にいられる時間を造ってくれたと信じています。お母さん、本当にありがとうございました。🧡海よりも深い愛情をありがとうございました。
(オサムさん、50代、東京都)

「こんないいもの、買っていいのかなあ」横浜で買ってもらったグラスのペンダントネックレス。青、白、シルバーがうまく混ざり合ったハート型のそれは、角度によって見せる顔が違う万華鏡のような儚さを持っている。ちょうど受験生の時に、1日だけガス抜きをしようと言って訪れた横浜で買ったものだ。父は値段も見ずにお願いしますと言ってくれたのだ。あまりの喜びに、心臓が高鳴ってやまなかった。お店を出て着けてみると、その表面に夜の横浜がきらりと反射して、どうしようもない美しさだった。これをつけていれば、私はあの時の喜びに一瞬にしてかえることができる。どこから見てもきれいだね、こんないいもの、手に入れられてしあわせだ。🧡いつもありがとうございます。きっといつかこのペンダントと同じくらいのよろこびを返せたらと、こつこつ頑張っています。
(たこわささん、10代、埼玉県)

母は言葉にはしなかったものの、仕事に家事に、多忙を極めていることは当時の私にもわかった。大学受験に向けて躍起になって勉強していた頃、私は早朝に家を出ては夜遅くに家に帰る生活を送っていた。にも関わらず母は朝はお弁当を、夜は温かいご飯を作って私を待っていてくれた。たわいない私の話にも付き合ってくれて、そんな些細な時間がどれだけ当時の私を救っていたかは計り知れない。働き詰めて私以上に疲れている日ばかりだっただろうに、母は不満一つもらさなかった。🧡当時の私が歩めたのも、今の私がいるのも、あなたの支えがあってこそです。自慢の母よ。あまりに大きすぎるその背中を私は追い続けていきます。今までも今もこれからも、ありがとう。
(匿名希望さん、10代、大阪府)

母さん、今年も水仙が咲いたよ。毎年、律儀に咲く水仙の匂いは、凛とした母さんを思い出させます。いつも、庭で何かをしていた母さん。あなたの庭を時々訪ね、季節の花々から元気をもらっています。紫陽花のさわやかさ、百日紅の素朴な華やかさ、花には花の個性があるんですね。兄や姉と違ってやんちゃで反抗もいっぱいした私を無償の愛で包んでくれてありがとう。あなたと一緒にすごしたふんわりとした時間こそ、私の愛のコップを満たしてくれた大切な宝物です。おかげで、私も子どもたちや孫に惜しみなく愛を注ぐことができ、豊かな人生をおくれているんだなと、じんわり心に染みています。🧡ったかい愛で包んでくれてありがとう。
(soraさん、60代、広島県)